日本の校則は何故厳しいのか?
先日20年以上ぶりに中高の友達と再会してお酒を飲む機会がありました。そこで話題に上ったのが当時の自分たちの学校の異常な校則の厳しさでした。一応進学校で歴史のあるお嬢様学校だったのですが、古くさ過ぎる校則が大量に残っていて、生徒総会で排除に至ったものなども当時あったのですが、あの分厚い校則集を一つ一つ生徒総会にかけていては20年では足りないほどです。
しかし一方で超進学校である兄の学校では当時から校則というものが存在しませんでした。学校にモヒカン頭で通学している先輩に、頼むから保護者会の日までにその頭何とかできないかなぁ~頼むよぉ…と、先生がお願いしたりするレベルです。
そんな兄の学校を見ていたので、私は自分の学校の校則が本当に無意味で理不尽なものだと強く感じていました。例をあげると(20年以上前なのでもうなくなった可能性もありますが)、男女交際禁止、髪の毛は肩までのカットか二つ結びのみ、靴下は三つ折り、校章を左襟につける、スカートはひざ下丈、染髪やアクセサリー不可、授業が無い日も指定の皮のカバンを持っていく、靴は革靴のみetcなど、当時でも古すぎて意味不明の物ばかりでした。
外見的規則の多すぎる日本
ここで思い出しても不思議なのは殆どの校則が外見に関するものだったことです。これは日本特有のものな気がします。アメリカでも、チューブトップ禁止やレギンスだけで登校するのは禁止など外見に関する校則は散見されますが、それは殆どにおいてセクシーすぎる格好をすることで生徒が危険な目に合うことを防ぐ為など、生徒自身のことを思ってのものです。
しかし日本の校則は純粋に軍隊のように統一性を持たせて個性を消し、集団を重視するためのものです。戦前戦中に計画的に作られたであろうこの規則を変化に鈍く声をあげるのが苦手な日本人は、この校則は必要ないと思う!と言えないまま現在に至ってしまったのではないでしょうか?
超進学校には校則や制服が無いことが多い不思議
自由な学校と東大進学率の相関性
上記は校則では無くAERA.dotから引用した制服のあるなしと東大進学数の相関性を見た図ですが、外見の統一性を究極に無くした私服登校可の学校が結構な数東大に合格していることがわかります。制服があったとしても例えば一位の開成などは自由な校風で知られた学校です。
このように超がつく進学校ほど校則は無いに等しく、あらゆるルールは生徒の自治にゆだねられていたりします。校則で生徒を縛ることの意味が学業の面でほぼ意味の無いことはこのことからもわかるでしょう。
偏差値が高い子だけが自由を謳歌できるの?
その学校の宗教観やお嬢様度などによって幅はあるでしょうが、上記のように偏差値の高い学校は自由な学校が多いのはよく知られた話です。では偏差値の低い子供に自由を与えたら学級崩壊を起こし勉強などしなくなるのでしょうか?
そのことは平均学力が世界一であるフィンランドを見れば一目瞭然です。フィンランドには校則というものが存在しないという話は聞いたことがありますか?なんとフィンランドの子供たちは宿題さえも無いそうなのです。無理やりやらされる宿題が無いために子供たちは勉強嫌いになる理由がありません。校則で縛られることも無いので学校は楽しい場所となります。クラスで問題が勃発したら皆で話し合い、自ら考え行動するのです。
校則で縛れば子供が勉強するなどという意見は荒唐無稽なものです。学びとは誰にとっても自主的でなければ意味をなさないのです。
まとめ
少しづつ意味の無い校則は減ってきてはいるものの、日本の校則の厳しさは世界でも有名です。特に髪の色などに関するものは差別的だと批判されることも少なくありません。
本当の意味で生徒のためを思っている校則なら理解できるのですが、教師や保護者から見てもその存在意義が怪しいような校則をずるずると残したままにしてしまうのはいかがなものかな?と思います。
校則の全てをなくせとは言いませんが、その意義があるのか否かは改めて見直す時が来ているのではないでしょうか?